出典:EPGの番組情報

徹子の部屋 鶴見辰吾[解][字]

~57歳…2年前に亡くなった父との最期~鶴見辰吾さんが今日のゲストです。

◇ゲスト
俳優生活45年を迎えた鶴見辰吾さんがゲスト。
◇番組内容
40歳の頃に自転車を始め、50代ではマラソンにも挑戦したが打ち込みすぎて痩せてしまい、依頼される役柄に変化が出たため、両方やめてしまったという。現在は週2日、ジムで筋トレに励み身体作りをしているが…また役に変化が!?12歳でドラマデビューした鶴見さん。ドラマ『3年B組金八先生』の出演で当時話題になったが、共演者とは今でも同窓会を開き交流があると明かす。また、2年前に亡くなった父との思い出を振り返る。
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
 http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/

ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
福祉 – 文字(字幕)

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  13. ハハハハ
  14. フフフ
  15. フフフフ
  16. 筋トレ
  17. 収録
  18. 石井
  19. 祖父
  20. 相当

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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(黒柳)これはデビューをなさった

12歳の頃のご本人です。

今年 俳優生活45年になりました

俳優の鶴見辰吾さんです。

どうぞ こちらへ おいでください。

どうも しばらくでございました。
どうも ご無沙汰して すいません。

よろしくお願いします。
どうも。

でも あなた あれね。 顔は
あまり お変わりにならないわね。

そうですか?
そう思います。

だって もう デビューから
45年っていうんだから

もう 五十何歳かでしょ?
57歳ですね。

そう。 もう 考えられないですね。
あっという間でしたね なんか。

僕がデビューしたのが…
ちょうど さっきの写真の頃って

テレビ朝日のドラマで。

その時 もう
もちろん 当然ながら

『徹子の部屋』の収録
していましたもんね。

あっ もう ありました?
ありました ありました。

でも この前 ご出演になった時
なんか 自転車に乗って

登場なさいまして。
そうですね。

VTRがあるそうです。
2013年の『徹子の部屋』です。

ちょっと ご覧ください。

「あっ 本当だ。
あらららら…。 わあー」

「今日は
どこから乗っていらしたの?」

「今日は横浜ですね」
「横浜まで。 何キロぐらい?」

「31キロぐらいですね」
「すごいでしょ? 皆さん」

「これ 40から
お始めになったんですって」

「体にいいんで…。
これ 軽いって 本当?」

「軽いんですよ」
「あっ すごい簡単」

「あら すごいわね」
「ええ」

「これで6.8キロぐらいですかね」
「鶴見辰吾さんです」

「どうぞ よろしく」

フフフフ…。
あんなんだったんですね。

自転車で来ていましたね。
今 自転車 どうです?

今ね 自転車は乗っていないで

筋トレばっかり
しているんですけども。

あっ そうなの?
あの頃から比べると

体重も 随分 増やしまして。

あっ そうなの。
あの頃 何? 減っていたの?

あの頃は
一番 自転車に熱中していた頃で

色んなレースにも出ていまして。

もう どんどん
体重も減っていっちゃって。

そのあと マラソンも誘われて。

マラソンも 2015年と2016年に
2回 出たんですね。

あら 写真がありますけど。
ああ そうです そうです。

これです。
これは何キロぐらい走っていた?

これ フルマラソンでしたから

42.195キロ。

これ 横浜マラソン
一番最初の大会がありまして

3時間12分ぐらいで
走りきったんですよ。

それは 自転車やっていた
おかげなんですけど。

みんなから
すごいね すごいねって言われて

いい気になっていたんですけど
フタを開けてみたら

規定より短かったっていう事で

幻のタイムに
なっちゃったんですね。

みんなに それからは

残念でしたね 残念でしたねって。
本当に?

そうなんですよ。
それは 誰か…

係が悪かったんでしょうね。
初めての大会で

やっぱり こう あとから測ったら

ちょっと 誤差が出た
っていう事になっちゃって。

翌年の2016年も参加して

3時間9分で走りました。
すごいじゃない。

でもね 本当に大変でした。
ハハハハ…。

マラソンっていうのも
大変ですってね。

はい。
ええー。 なんだか あんまり

なんかやったら痩せちゃって
病人の役しか

ずっと来なかったっていうのは
そう?

そうなんです。
マラソンなんかやって…

マラソンも3時間9分ぐらいで
走るとなると

どんどん どんどん痩せていって。

当時 51歳か
それぐらいなんですけど

体脂肪が8パーセントとか
8.5パーセント…。

自分としてはね 50過ぎて
腹筋も割れているし

自分では
悦に入っていたんですけど

周りからは…
そうは思っていなかったみたいで。

気が付くと
死ぬ役ばっかり 増えちゃって。

ハハハハ…! 相当 おかしい。
なんか 今年は

やたら 病院でロケする機会が
多いなとか…。

なんか そういう役が
4件か5件ぐらい続きまして。

これ 恐らく
ちょっと 運動しすぎて

痩せすぎているからだなと思って。
相当 おかしいわね。

これは まずいと思って
それで いわゆる

自転車であったりとか
マラソンであったりとか

そういうのは 一旦 封印して。

で 筋トレを軸にした
運動をするようになったんです。

トレーニング?
そうです。 トレーニングです。

今 週に何回ぐらい?
大体 週に2回か3回ぐらい…。

でも 相当 肩やなんかの所
肉が よくついていますよね。

なんか 相当 大変そう。
これはこれで大変なんですけど。

やっぱり
体の造形を変えるっていう

その成果が出てくるんで
ちょっと 面白くなっちゃって。

そうですか。
役柄は よくなりました?

役柄はね おかげさまで

病人の役から
筋トレの効果もありまして

総理大臣の役とかですね…。
ハハハハ…。 いいじゃない。

そういう大物の役に変わってきて。

筋トレのせいか 年齢のせいかは
わからないですけども

ちょっと 役柄がね…。
ちょうどいいんじゃないですかね。

12歳の時に ドラマ
『竹の子すくすく』というので

デビューなすって
片平なぎささんの弟さん役で

デビューなさいました。

これ あなた 小学生?
これ 小学校の時にね

机の上 乗っかって
怒られるんですけど このあと。

そうなの。 可愛いわね。
お調子者だったんですね。

お調子者…。 で 俳優の仕事に
興味はあったの?

この頃ではないんですけど
もっと前の頃から

私の親戚のおばだったりとか
祖父がですね

よく芝居に…
見に連れて行ってくれて。

一番最初に見たのが
私 宝塚だったんですね。

すごく絢爛豪華で。

小学校前でしたから
それ 全部 やっているのが

女の人だって
わかんなかったんですよ。

それは わかんないですよ。
男は男だと思いますよね。

男役の人は男の人がやっていて
で お姫様は

女優さんがやっているかと
思ったんですけど

あとから これ 全員
女の人がやっているんだよって。

男は できないのよって言われて

ちょっとだけ
男で生まれてきた事を

後悔したんですね。
あの時に?

あっ 僕は宝塚入れないんだと
思って。

入りたかったのね。
ちょっと入りたかったんですけど。

そう。
それは無理でしたね。

残念でしたね。
入れないもんね どうしてもね。

でも 今 こうやって
役者をやっていながら

舞台に立つ機会も
あるんですけども。

そうすると やっぱり
宝塚出身の方と

同じ舞台に立つ事もあるんで
そういう時は

夢がかなったような気がしてね
すごく うれしいんです。

でも あなたのお母様の方の
おじい様は

俳優志望の方だった…。
そうなんですよ なんか。

昔々 松竹が蒲田にあった頃に

なんか 自分で ちょっと

制作費… お金 少し出してまで…。

この方ですか?
そうなんで…。

丁稚の役かなんかで
出たっていう話を

祖母から聞きまして。
フフフフ…。

ウラシマなんとか
っていう芸名までもらって

ちょこっと
映画に出ていたそうです。

そうなの。 へえー。

なので
祖父がなりたかった仕事に

私は 運よく
就く事ができたので…。

祖父が早く
亡くなっちゃったんですけども。

祖父が 私の 今 こういった

徹子さんと お話し
しているところとか見たら

すごく喜んだんだろうな
というふうに思いますね。

本当にね。

お見せしたかったですよね。
はい。

でも 中学3年生の時に
『金八先生』に

出ていらっしゃいましたよね?
はい。

あれは 私も拝見しました。
ありがとうございます。

杉田かおるさんと
恋人役になったりしてね。

はい。
でも 昔の出演者と

今でも交流はあるんですか?

杉田さんは 本当に

時々 会いますよ。
あっ そう。

私がやった芝居なんか
見に来てくださって

そのあと 一緒に
食事に行ったりとか。

でも 同窓会も定期的に
なんか 催しているんですって?

そうなんですよ。
すごいわね それも。

なんか マメにね
そういう段取りを

やってくれる人がいてね。
誰かいるの?

そう。 そういうのに
乗っかるだけなんですけども。

桜のなんとかっていって…
桜の時期にやるんですね

お花見会みたいな感じで。

実際 お花見を
やるわけじゃないんですけど

どこかの店に集まって…。
その頃ね。

はい。 で 代々

私が一番最初の 『金八先生』の
生徒役だったんですけども。

そのあとも 平成にわたって
何代にもあるんですけど。

そんなにあったの?
はい。

なんか 私が覚えているのは
先生で…。

ああ 武田鉄矢さんの…。
あっ 武田鉄矢さん?

武田鉄矢さんも来た?
はい。 もちろん。

あの時に面白かったのが
『金八先生』

当時 赤坂のGスタで…。
Gスタで…。 私 覚えています。

撮っていたんです。
『ベストテン』もやっていた所で。

フフフフ…。

西城秀樹さんが
廊下を歩いたっていって

みんな 大騒ぎして 生徒たちが。

サインもらっちゃった
もらっちゃったって

喜んでたんですけど 実は

そっくりさん大会
みたいなものがあって

全然 西城秀樹さんじゃ
なかったんですけど。

みんな そっくりさんに
サインをもらって 喜んでた…。

でも 2年前に お父様

お亡くなりになった
っていうんだけど。

はい。 私の父っていうのもね

なんか もう…
なんていうんですかね。

私の父だから…
あっ これ。 そうそう。

これ 若い頃なんですよ。
真ん中にいるのが私で。

どこの海岸で撮ったのか

私 赤ん坊なので
覚えていないんですけども。

まあ やりたい事をやっていた人で
父は。

色んな事業をやっては失敗し
みたいな。

フフフフ…。
だから うちの母は

随分 苦労したんだと
思うんですけど。

学生の頃に
ハワイアンのバンドみたいなのを

やっていたんです。

で なんかね
ウッドベースみたいなのを

弾いていたらしくて

そういう話を
よく聞かされていたもんですから。

私が中学生の時に

ドラマでデビューする
っていう事に対しても

そんなに抵抗感なく

せっかくのチャンスなんだから
やってみろっていう感じで

応援してくれたんですよね。
あっ そうなの。

そうこうしているうちに
なんか お母様が

武家の出身っていう事になって…。
そうなんですよ。

なんかね
先祖をたどる番組に出たんです。

ええ。 お出になったの?
そうなんです。

あれ 面白いもんで
委任状7~8枚 渡すと

あとは もう 勝手に
全部 スタッフが調べてくれて…。

そうだってね。 本当に
自分じゃ調べきれないとこまで。

全部 調べて。

で あとは 当日
皆さんが調べてきてくれた

画像を見る
という事なんですけども。

子供の頃から うちの母の…

母方のお墓参りなんかは
よく行っていて

元々 お武家さんだったとか

っていう事は
知っていたんですけど。

うちの父も うちも武家の出なんだ
みたいな事を言って

対抗して言っているんじゃ
ないかなと思って。

負けず嫌いで

そういうふうに言っているのかな
と思っていたんですね。

というのも うちの父は三男坊で
あんまり ほとんど

父方の親戚との付き合いが
なかったもんですから

父の いわゆる先祖のお墓が
どこにあるのかも知らなかったし。

それも すごいわね。
そうなんです。

調べたら 本当に
なんか 松本城に仕えていた

下級武士の末裔だったみたいで。
フフフ。

ちょうど その番組を
撮る時期っていうのは一昨年で

コロナがね
まん延しちゃっていて

結構 スタジオ収録のタイミングが
遅れちゃったりなんかして。

その間にね どんどん どんどん

父の体調が
悪くなってしまいまして。

本当は ちょっと 見せて
あげたかったんですけどもね

それは見せられなかったんですね。
あら。

まあ 最後の方は
父は福祉の施設の方に入って

過ごしていたんですけども。

朝 うちの父が亡くなりました
という連絡があった日に

収録したものを試写室で見る
っていう日だったんですよ。

とにかく その収録の時に
うちの父の死に顔を見てから

試写室で
その収録に行ったんですけども。

泣きだしちゃったら

もう ぼうだのように
あふれてきちゃうから

グッとこらえていたんですけど。

父の若い頃の写真だったりとか
色んなのが出てきて もう

かなり
迫るものがあったんですけど。

一番 迫る話っていうのは

父が 戦争中に
千葉の方に疎開していたんですね。

それは 父からも
話を聞いていたんですけども。

父はね 私に よく

俺はケンカが強くて
いつも番長で

みんなの人気者だったんだ
みたいな事を…。

またね そんな事
僕がわかんないと思って自慢して。

自分の父親なんだから

そんな大した事ないだろうなと
思っていたんですよ。

ところが 父の やっぱり 小学校を
一緒に疎開したっていう方が

なんか こう 証言してくれまして。
あの番組はね そうですから。

で 鶴見君と
千葉の疎開に行った時に

都会っ子っていうのは

食料事情が悪いから
痩せているんだと。

で みんな
貧弱な体形しているんだけども

田舎の疎開先 行くと
栄養がいいから

みんなね 体格がよくて
いじめられそうになったところを

鶴見が
番長みたいなのをやっつけて

結局 自分が疎開先で
番長になっちゃってね

っていうような…。

ああー この人 本当に
ケンカ強かったんだなみたいな。

そんな話を聞いたら
急に もう こみ上げて

そこが一番ピークで もう

ここで泣いたら まずいなと思って
我慢したんですけど。

でも 本当だったんだ。
そうなんですよ。

もうちょっと
お父様 長生きしてくださればさ

「お父さん 本当だったんですね」
って言えたのにね。

本当 そうです。 なんかね…。

亡くなった父の
生前 言っていた事が

その話 本当だったんだ
っていうふうに気付いた時に

なんかね すごく父が
恋しくなって 愛しくなって。

そうですよね。
はい。

なんか 一気にね 寂しさが
こみ上げてきましたけども。

そんな体験をね
最後にね させてくれるのはね

面白い事を
プレゼントしてくれるなと

思いましてね。
まあ そうですよね。

偶然とは言いながら。
めったにできない体験です。

お母様は
ご様子いかがなんですか?

今。
うちの母はね 元気です。

「ちょっと膝がね…」とかって
言っているんで

時々 病院に
一緒に行ったりとかして。

うちの弟は結婚していないんで
弟と一緒に…。

あっ そうなの。
はい。 そうなんですけども。

じゃあ いいですよね。
はい。 もう 安心です。

でも なんか あなた 日本舞踊…。

そうなんです。
どうしたんですか? それは。

日本舞踊ね 気が付いたら
22年ぐらい… 22~23…

23年ぐらい
やっているんですけども。

ついこの間 恥ずかしながら
お名前を頂きましてね。

名取に… っていうんでしょ?
名取になりまして…。

長くやってきてよかったなと…。
あら。 これ そうですか?

ああ これが… はい。 これ もう
ちょっと前になるんですけども。

ええ。
始めたきっかけっていうのが

今から もう
それこそ24~25年前に

蜷川幸雄さんの

さいたま…
「シェイクスピア・シリーズ」

っていうのがありまして。

その時に 石井愃一さんっていう
俳優さんが出ていまして。

とにかく 道化の役で
すごく大変だったんですけども

すっごく こう
やり込められていて。

やり込められて 「もっと 石井
なんかないのか?」って。

「なんかやれ! なんかやれ!」
とかって言われているうちに

石井さんが とっさに日本舞踊の
所作を始めたんですよね。

フフフ…。
僕は 石井さんが

追い詰められているところを
見ながら

自分が追い詰められたら
なんにも出てこないなと思って。

石井さんが あれだけ
追い詰められた揚げ句に出たのが

日本舞踊かと思って。
よし 日本舞踊やろうと思って

それで 日本舞踊を始めたのが
きっかけなんですよね。

その時 蜷川さん
どうしていました?

「シェイクスピアなんだから
日本舞踊なんか やるな!」

とかいって
怒られていたんですけども。

怒られちゃったの?
怒られちゃっていたんですけど。

でも その時に
日本舞踊ができるのは いいなと。

そうですね。 とにかく…
35~36だったですかね 僕が。

なんか こう 自分に

俳優としての
バックボーンとなる…

なんにもないなっていうふうに…。
技術がね。

で ちょっと慌てて
遅ればせながら

その頃から日本舞踊を…。
今も やっていらっしゃるの?

はい。 やっているんです。
ふーん。

で 先生に 今度 こちらの

『徹子の部屋』に出るんです
っていう話をしましたら

うちの先生は
黒柳さんの… 『藤娘』を

大昔にお教えした事があるって。

えっ? 私に?
はい。

えっ?
おっしゃっていました。

『藤娘』を ちょっと
やった事があるんですって。

あら 大変。
フフフ。 それは恐ろしい。

それで 黒柳さんは やっぱり
探究心が… 熱心だから

なんで ここで袖を返すの? とか

なんで 藤の枝を こうやるの?
っていう質問を

いっぱいなさっていたっていう…。
ご宗家です 私は 習っていたの。

ああー そうです そうです。
藤間勘十郎さん。

で 私がね なんかね
こうなってね…

「なんで こういうふうに
お触りになったんです?」。

「今ね 徹子ちゃんね これはね
とっくりが熱かったから

ちょっと 耳 触ったの」。
「そうで… わかりました」って。

だから その宗家に
一緒についていたのが

うちの今の先生なんですよね。
あっ そうで…。

いらっしゃいましたよ
女の先生が。

はいはい。 女性の先生…。
そう。 女性の先生が。 そうそう。

それでね 藤間紫さんに あとで
「あんたね どうしてどうしてって

聞くんじゃないのよ」って
言うから。

「やれって言われたら
そのとおり やるのよ」って。

「そりゃ あなたはね
小さい時から やっているから

そうだろうけど
大人からやるとね やっぱり

なんで こんな事やるのかってね
気になるんです」って言ったらね

みんなに すごく笑われた。

でも ご宗家
とっても可愛がってくださってね

色々 見せてくださいました。
ああー。

鶴見辰吾さんは
2004年に ご結婚になりまして

結婚生活18年ですけれども。

常に 奥様に感謝して
いらっしゃるんですって?

そうです もう…。
うちは子供がいないんで

ままごとみたいな
夫婦なんですけども

よくして頂いてですね。

奥さんに 本当に
頭が上がらないです。

どんな奥様なの?
明るいですね。

みんなを楽しい雰囲気に…。
いいですね。

はい。 なので もう
早く家に帰りたくなる家を

作ってくれています
うちの奥さんが。

で お料理がお上手なんですって?
そうなんですよ。

一生懸命 なんか やっていて。

でも なんか うちの奥さんは

こういう番組で話題にされるのが
嫌みたいで。

それは なんでかっていうと

色々 結婚したてで
わかんなかった頃に

僕の日本舞踊の稽古用の帯を

洗濯機で洗っちゃったんですね。
フフフ…。

で その話を…
また 今日もしているんですけど。

その話を一回 トーク番組でしたら
みんなから

「なんで 帯 洗ったの? なんで
帯 洗っちゃったの?」って

言われちゃって。
だから それ以来 なんか

「トーク番組で
私の話題はしないで」とかって…。

わかりました。
言っているんですけど。

でも 料理はしてくれるし…。

お料理 お上手なんですってね。
はい。

今日もですね
なんか 得意料理のね

パテ・ド・カンパーニュ
っていうのを

作っていましたけども。
おお…。

はい。 なんか…。
それは 今晩に間に合うんですか?

はい。 今晩 食べれます 私。

あっ そう。 じゃあ 楽しみね。
ハハハハ…。

今後の目標って
なんか ありますか?

そうですね。

色々 やりたいんですけども…。

もうすぐ60歳になるので。
ええ。

あと数年経つと。

それに向けて

やっぱり もうちょっと踊りを
しっかり踊れるようになって

どこか 人様に披露できるような
機会があったらいいかなって

ちょっと ひそかに思っています。
あっ そうですか。 ふーん。

あとは やっぱり これまで
ずーっと皆さんに支えられて

今日がありますので
まあ とにかく 恩返しをね

残りの人生 しっかり
悔いがないように

やっていきたいなというふうに
思います。

まあね。
はい。

でも まあ 俳優という職業は

なんとでも…
できる仕事だと思いますので。

でも 続けて
俳優やっていらしたのは

よかったですよね きっと。
そうですね。 はい。 おかげさまで。

これからも
よろしくお願いします。

本当に。 すてきだなと思って。

あんなに若かった
あなたを見た時に

いいなと思ったの。 どうも。

『徹子の部屋』は

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